2009年08月29日

インドの組織犯罪:ヒストリーチャンネル

世界の組織犯罪「インド」

人口十億の国家。


「暗黒街はお金がすべてです。お金をださないと殺されてしまいます」
現代は成功者が標的となる。

インドは国ではなく大陸だと言われている。
数百の方言がある十五種類の言語が話されている。
その中にあって、誰でもが理解できる言葉、それが映画である。
映画はこの国で最も重要なサブカルチャーで、国民の好みを明確に表しているんです。
一つのことを分かち合えると言う意味では、国全体をまとめる役割を果たしているのかもしれません。
映画産業の中心地は、ムンバイの海岸地帯で、ポリウッドと呼ばれる。
年間六百本の映画を生み出す。
しかし、組織犯罪と深いつながりがある。
リティック・ローシャンはポリウッドで屈指の大スター。
「言って愛してるって」が大ヒットした。
彼の父親も有名人で、この映画の監督を務めた。
しかし、2000年1月21日、オフィスの外側で、二人のガンマンに待ち伏せされていた。
ムンバイの暗黒街から狙われたわけは、親子共に成功したからだ。
人口1600万人のムンバイは、かつてボンベイと呼ばれた組織犯罪の中心地。
インド経済の民営化と政治の腐敗は、眠っていた暗黒世界を呼び覚ましたと、作家のビラニ氏は言う。
「犯罪はインド中にはびこっていますが、特にムンバイはひどかったんです。犯罪者と警察と政治家を区別することさえも、非常に難しい状況になってしまいました」
売春密輸、不動産、そして、今最大の標的はポリウッド。
羽振りのいい商売の支配権を巡り、暗黒街の抗争はエスカレートするばかりである。

ローシャン襲撃事件は、最新の事件だが、その兆しは、1970年代に始まった。
当時、映画は産業として認められていなかった。銀行の融資も認められなかった。
「彼らは、銀行の融資を断られました。制作費を捻出するには、個人のお金を借りるしかありません」
暗黒街のボスたちは、いわゆる黒い金で映画の資金調達をした。
ギャングとの関わりで利益を得たプロデューサーもいた。
しかし、黒い金を利用すれば、ギャングの言いなりにならざるを得ない。ゆすられても逆らえない。
「映画がヒットするが、【金をよこさなければ、殺す】、いつそんな電話がかかってくるか、おびえているのです」。
1999年インド政府は、映画制作を正式な産業と認め、正式に融資を得られるようになった。晴れて、減税と利益を得られるようになった。しかし、最も利益を上げられる産業をギャングが手放すはずもなく、ローシャン襲撃事件が起きた。
これは、金を払い続けろという暗黒街のメッセージだと言われている。

現在、警察の保護を求めたが、警察は、ローシャン親子と、一握りのスターの護衛だけしかできない。

「ギャングの組織力を持ってすれば、どんな人物も狙うのは簡単です」
ポリウッドで地下組織がのさばるようになったのは、ここ20年ぐらいだが、何世紀も前のカルト集団が起源となっている。彼らの謎に満ちた殺人儀式は伝説となり、その名前は悪党と同意語となった。サグである。
この25年間で、凶悪組織は勢力を拡大した。

だが、そのルーツは、インドの広大で神秘的な田園地帯である。
その秘密組織は、何世紀にもわたって、旅人たちを襲い、殺戮を繰り返した。

それは、19世紀初頭、イギリスのインド支配以前のこと。
ロイ教授に解説してもらおう。
「インドは、まだ直接イギリスの支配を受けず、国策会社の東インド会社が統治していました」
200年の時を費やしても、イギリスはインドを大きく変えることはできなかった。
カースト制度、伝統的宗教、広漠たる未知の領土がいまだに残っているのである。
当時、その土地の多くはまだ無法地帯だった。
植民地化に当たり、イギリスはまず法律の整備に取りかかった。
「収益をスムーズに本国へ流すための措置だった事も確かです」
不可解な事実が耳に入った。
毎年何万人も行方不明になっている。
ちまたでは、殺人強盗組織サギーの噂が。
サギーは1300年代半ばから、インドに存在していたと言われる。
彼らは旅人や商人の振りをして、一緒に旅をし、寝食を共にし、警戒心を取り除いてから、襲撃した。一人が気をそらし、もう一人が後ろから、黄色いスカーフで、首を絞める。黄色いスカーフは彼らの象徴。
ルマールと呼ばれるスカーフは、ヒンデューの女神カーリーへの献身を表す。
インドにやってくるよそ者を怖がらせる存在、それがカーリー。
サグは絞殺という手口を正当化するために、神話を利用した。
ルマールは象徴的でもあり、実用的でもあった。
「ルマールというスカーフを身に着けているからと言って、すぐに殺人犯と疑われることはまずないでしょう。これは、いかにサグがずるがしこいかを物語っている例なのです」
サグにはそれぞれの役割があった。詐欺師または、スータと呼ばれる者が殺害を担当し、ルーガが墓を掘る。

「サグたちは、死体を隠すのが非常に上手でした。殺害を実行するのは、人里離れた場所で、埋めた上には石をたくさんおいて、野生動物に荒らされないようにしました」
様々な儀式を行うことにより、結束を高めたが、忠義や信仰のためだけに殺しを行ったのではなかった。
「表面的には宗教儀式を装いましたが、実際には被害者の持ち物を身ぐるみはがしていたのです」
「サグたち自身が記述したものに、どんな人を襲ったかが詳しく書いてあります。裕福な巡礼者、結婚式の一団、銀行家など、いずれもお金をたくさん持ち歩いている人たちばかりです」
19世紀初頭には約5000人のサグが年間約3万人を殺害していたと言われている。
イギリスのベンガル隊のある士官は、サグ根絶に生涯をかけようとしていた。

19世紀初頭、インドは二つの世界が混ざり合っていた。
イギリスは、ムンバイを始め、広大なこの国のごく小さな一部を支配しようとしていたが、そのほかの地域では、ごく昔と変わらぬ生活が営まれ、インド人はイギリス人を見たこともなかった。
イギリス人は、インドを出世と金儲けのチャンスがある土地だと考えた。
だが、ベンガル隊の士官ウィリアム・ヘンリー・スリーマンは、インドの人々や文化に魅了された。いつしか、彼は、インドの殺人集団を全滅させることに、情熱を傾けるようになった。サグである。1809年、スリーマンは、21歳でインドに赴任した。酒を飲まず、カルカッタにたむろする娼婦にも興味がなかった。代わりに、彼はインド文化にのめり込み、言葉を習得し、歴史や宗教を学んだ。ヒンドゥー教の研究をするうち、衝撃的な殺人強盗団の存在を知った。
「彼が読んだ報告書は、犯罪者や殺人者犯の逮捕について描かれたもので、彼が読むまで本当に関心を持つ者はいなかったのです」
報告書によれば、サグの一団は殺人の容疑で逮捕されたが、イギリス人判事は、彼らを釈放した。あまりに信じがたい告発内容だというのがその理由である。
スリーマンは詳細を聞き回ったが、皆無関心だった。
スリーマン氏は、自らの先祖をこう語る。
「インドでのビジネスに支障を来さない限り、イギリスは関心を持ちませんでした。彼がサグの捜索をしようにも応援が得られなかったのです」
1822年、スリーマンは文官任務を命じられ、行政長官に就任した。
法的な権限を得た彼は、サグを根絶するという堅い決意を新たにした。それから18年の間、インド中を周り、おびえる村人から情報を集めた。そして、身の毛もよだつ真実が明らかになった。
毎年何万人も殺害され、峡谷や浅い墓に埋められているというのである。500体以上埋められている墓もあった。被害者の多くは、首にあざが残っていた。これは、サグが絞殺を好んだことの証だ。
スリーマンは古代文化の詳細を一つ一つ丁寧に組み立てていき、サグが世襲制の集団であることを突き止めた。そして、それは、カースト制度や宗教をも超越していた。
驚いたことに、サグの多くは長旅の本当の目的を自分の家族にも隠していた。サグはダマシーナという隠語を使い、周りにいるよそ者に悟られずに仲間内の会話が出来た。
スリーマンは、このならず者の言語を詳細に記録し、辞書として出版した。それは他のサグ討伐隊の助けとなった。

1830年代初め、アジアにおけるイギリスの任務は変わりつつあった。インドは利用するべき国から、救うべき国となったのである。
「その頃の大英帝国は、自らを改革主義者だと考えるようになりました」
植民地政府は、スリーマンのサグ対策を支持するようになった。
1835年、スリーマンはサグ鎮圧の総司令官に任命された。本部は、デリーから南に640キロ離れたジャバルプールに置かれたが、彼の管轄権は、インド全体に及び、逮捕拘束容疑者の裁判など広範囲の権限を持っていた。
サグの隠語をすでに解読していたスリーマンは、サグをグループに分類し、仲間同士が裏切るように仕向けた。何世紀もサグを支えてきた信仰は、今やスリーマンの味方となった。
サグは、ひとたび捕らえられると、それは神の思し召し、運命だと思い、洗いざらいしゃべった。
告発人の話から、グループが全部つながっていることが分かった。
サグとインド王族の影のつながりも分かった。特に、イギリスの統制が及ばない地域ではサグが王族に守られている例もあった。
「王族は、自分の村や町にサグをかくまったんです。サグはよそ者を襲って、金品を奪い、王族はその分け前を手にするという恩恵を受けていました」
1840年までに、3000人のサグが捕らえられ、400人が処刑された。

新たな法律により、スリーマンはサグだけでなく、その協力者も拘束できる権限が与えられた。
ジャバルプールにあるこの教護院に一族全体を拘束したこともあった。
彼らはここで、染色や絨毯を織る訓練を受けたが、一生外に出ることは許されなかった。まだ捕まっていないサグもついに観念することになった。

1856年、スリーマンは妻のエイミリーと共にイギリスに帰ることになった。
インドで様々な病気にかかっていたスリーマンは、船に乗るためにカルカッタに到着した時、かなり衰弱していた。出航して9日後、心臓発作で倒れ、67歳でこの世を去った。

サグは神話だとする者もいる。
スリーマンの後に続く者が、犯罪人から反政府主義者に至るまで、実に幅広い対象を取り締まり、逮捕することが可能になったからだ。
インド中部では、別の遺産が受け継がれていた。ジャバルプール近くの小さな村、スリーマナバットである。1833年、99エーカーの土地を農民たちに与えた。
近くの聖堂では、サグを裁いた功労者として、ウィリアム・スリーマンが祀られている。

インドの組織犯罪は、サグが滅びてから、1世紀以上影を潜めていたが、ここ25年で復讐を果たすかのような復活をみせている。
最大のお尋ね者と呼ばれる黒幕の存在がその立役者である。
サグの全滅から、100年以上の時を経て、インドには犯罪組織の猛威がよみがえった。

もっとも危険な黒幕、ダ−ウッド・イブラヒムは、売春、不動産詐欺、国際テロに至るまで、あらゆる犯罪を影で操っている。

「最悪の犯罪者です。だれもがこの男の逮捕を望んでいます」
イブラヒムは、1955年、イスラム教徒の両親の間に生まれた。父親は警察官だった。
あくせく働いても一生十分なお金は入らないと考えた。

犯罪に手を染め、ムンバイの暗黒街でトップにのし上がった。

1947年8月、インドは独立した。
イギリス植民地インドは、ヒンドゥー教インドと、イスラム教パキスタンに分裂した。
宗教戦争が勃発した。独立に際して、首相に就任したネルーは、ソ連式5ヶ年計画の着手、産業の公共化、インド経済の整備を推し進めた。
ジャーナリストのプリパラニ氏「インドは社会主義国で、国内製品の質は劣悪でした。そこで、ムンバイの海岸から密輸品が流入するようになったのです」

その結果、ムンバイのギャングたちは、闇商売、特に金の密輸に手を出すようになった。中産階級のインド人は、インフレに対抗して、金の備蓄をする。
「密輸が盛んになるにつれ、ムンバイは犯罪産業の中心地になりました」
1980年代初頭、インドが資本主義に移行すると、闇の組織は凶暴化した。インド政府は、対外投資の壁を取り払い、輸入品を認め新技術を導入するようになった。
ムンバイは、新しい金であふれた。
市内は飽和状態となり、地価は高騰した。そこでギャングたちは行動を起こした。
「彼らは建設業者たちを銃で脅したんです。金をよこさなければ、殺すと」
この状況を利用した業者もいた。ギャングと手を組んで、立ち退かせ、不当な利益を手にした。
サワント刑事「法的な手続きを踏んで、人々を立ち退かせるのはやっかいです。そこで、マフィアの出番となります。彼らは腕力や暴力に訴えて、住人を立ち退かせるのです」
この新しい闇世界で、最も恐れられたのが、ダーウッドだった。
暴力で競争相手を蹴散らし、不動産詐欺などで巨額の金を儲ける。その金を合法的な開発資金として運用するのだ。
彼は、かつてのアル・カポネのように、自分はただのビジネスマンだという。
一大で富を築いた素朴な青年というイメージ作りにも余念がない。
ごく一部のような人々にとって見れば、ロビン・フッドのようかもしれませんが、一般的にみればけっしてそうではないです」
1993年3月ムンバイの連続爆破事件に関与したとして、最重要指名手配犯となった。
13件の爆破で317人が死亡した。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の因縁の対立を刺激する結果となった。反イスラム派が起こした襲撃事件に対し、イスラム教徒のイブラヒムが報復の目的で指示したとされている。
当時、ヒンドゥー過激派は、イスラム教徒の商店や家を焼き払うなどの暴挙に出ていた。「憎しみに満ちたひどい暴動でした。身ごもった女性が、おなかを刃物で切られ、胎児を切り裂かれた事もあります。犯人はこれ以上イスラム教徒を増やすまいとしたんです」
暴動で900人が死んだが、ほとんどイスラム教徒だった。これに衝撃を受けたイブラヒムは、報復を決意したのである。
「彼らはムンバイの至る所に爆弾を仕掛けました。経済wの中心地を攻撃することで、国内のイスラム教徒への謝罪を求めたのです」
その後、ムンバイの暗黒世界は分裂した。
イブラヒムの腹心の部下だったヒンドゥー教徒のラジャーンが、ボスに背を向け、自らをヒンドゥーのドンと名乗るようになった。
ラジャーンは、イブラヒム一党を殺害しようと心に誓った。
かつて親友だった二人の大物は、敵同士となった。つまり宗教的対立が暗黒街にも広がった。
インド当局は、爆破事件は、イブラヒムの単独犯行ではないとしている。
使われた爆弾が、パキスタンのスパイ組織、ISIから手に入れたとしている。
この主張もまた、インドとパキスタンのいがみ合いという火に油を注ぐ結果となった。
パキスタンに逃亡したイブラヒムは、現在もISIの保護下にあり、彼らに協力しているという。
ムンバイ警察シバナンダン署長「ISIは彼を利用しているだけなんです。用がなくなれば、始末されるでしょう」
両国間に犯罪者引き渡し条約がないため、法的にはなすすべがない。
「敵国であるパキスタンから、彼を合法的に連れ戻す方法などありません」
イブラヒムは、組織犯罪と世界で最も危険な国際テロとの橋渡し役となった。
1999年8月、イブラヒムは、イスラム過激派のオサマ・ビン・ラーディンとアフガニスタンのカブールであった。武器を買ってくれる新たな客を開拓しようとしていた。一方で。カラチの豪華な邸宅から、ムンバイに指令を送り続けているという。
「世界は狭くなりました。誰でも簡単に衛星電話を使えるようになったのです」

シバナンダンはイブラヒム逮捕に強い意欲を燃やしている。


商業と経済の中心地であると同時に流行も左右しているムンバイ。
ムンバイにはいまだ多くの貧しい人々が暮らす。

75万人の貧困者が暮らすダラビーと呼ばれる地区は、アジアでも最大のスラム街だと言われる。
それでも、インドの人々はムンバイに集まってくる。
多くの者は現実に打ち砕かれる。
ムンバイにやってくる若い女性の多くは、フォークランドロードと呼ばれる歓楽街で娼婦に身を落とす。
ムンバイでは1万人以上がギャングから金をもらって働いていると言われる。
働くためにムンバイに来るが、いとも簡単に犯罪に身を落とす。
ムンバイでは殺人の報酬はわずか100ドル。
ギャングから賄賂を受け取っている政治家がいる。

警察の堕落もある。
ギャングに情報を渡すだけで、警察の給料の10倍の収入が得られる。
これに対し、当局は浄化作戦を実行した。
44歳の元大学教授のシバナンダンは不正になびかない警察署長として高い評価を得ている。
これまで、シバナンダンは断固とした姿勢で立ち向かっている。
1999年、エリート特殊部隊を結成した。
彼らのセミオートマチック銃は飾りではない。
83名の犯罪者を射殺した。

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posted by mimichan at 02:25| Comment(0) | 世界の組織犯罪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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